
私の移住計画
南の島への憧れは、子供の頃からありました。私も家内も将来は南の暖かい所で生活したいと考えていました。私達は新潟県、宮城県の生まれで、冬の寒いところで育ったので、「奄美大島はどうか?」と、家内が提案してきました。奄美大島には知人が、数年前に横浜からUターンしていて、時あるたびに「奄美においで」と誘われていたことを話しました。知人も、ご主人の定年に合わせ、夫婦で奄美にUターンしていたのです。
移住を決意した翌年の9月に、奄美の知人を訪ねたときのコバルトブルーの海、濃度の濃い空気、が印象に残っています。
まずは、知人の世話でアパートを借り、それから安住の地を探しました。
住居探し
翌日から、レンタカーを借りての、北から南への土地探しが始まりました。徐々に南下していき、12月の晴れた日に、瀬戸内町に入りましたが、峠を登り切った所で、思わず息を呑むほどの風景に出会ったのです。そこから見るスカイブルーの空、コバルトブルーの海、大小の島々が連なり、折り重なる。この世の桃源郷だと思いました。
それは横浜に居る頃、南の島を思い描き夢にまで見た光景でした。私は「ここだ、ここに決めた」とおもわず声が出ました。この瀬戸内町を終の棲家としようと思い、土地探しが始まったのです。
しかし、土地はなかなか決まらなかった。しかし、先にIターンをされていた人の家を訪ねてからは、とんとん拍子に今の場所に決まりました。
お世話になった皆さんに感謝すると共になにか運命の糸が私達を瀬戸内町に引き止めた気がしました。やがて、家が建ち、やっと島に落ち着きました。奄美に降り立って集落の一員となった時には、7ヶ月が過ぎていました。
その頃、集落では八月踊りの練習が始まり、私は太鼓、家内は踊りを、見よう見まねで教わりました。練習に通う日が、月に1回からやがて2回となり、歌は1曲、2曲と増えていきました。夏から繰り返し練習した八月踊りは、全14曲を唄い踊るまでになっていました。
さらに、地元のイベントなどには、何でも参加しました。そうこうしている間に、シマ(集落)にも、町内にも知合いが広がりました。
こうした数々の行事に参加させてもらい、島人と共に感動を共有できたことはシマ暮らしを始めた私達にとって、かけがえのない事でした。
私は「島唄」も好きだ。三味線を購入して教えてもらったが、すぐに諦めました。それでも聴くのは好きなので、奄美の島唄が、時間も場所も超越した人類普遍の根底を唄っているということに驚きでした。
シマ暮らしでの驚き
他にも驚いたことがあります。島人同士はほとんどが知っている人であり、かなりの割合で親戚関係だという事でした。私達は古仁屋のスーパーで知っている人に会うと「こんにちは」と声をかけますが、島人同士は知っている人が多いので、特に用のある人を除いて、目を合わせるだけでいいそうです。こんな些細なことを大仰に語ったなどと、思われるかもしれませんが、それからは人生において大抵の事に迷いが無くなったのです。当然の事ながら数多い南の島の中から奄美を選択したのも、また奄美に来てからの生活でも後悔はしていないし、自分の選択はベストだったと思っています。
私は島に移住する前に、息子と嫁に我々は南の島に移住すると報告しました。当時テレビで田中邦衛主演の「北の国から」を放映していたのでそれに掛けて「南の国から」をするといったのです。
私達にも2人の孫がいる。近い将来、息子夫婦と二人の孫が島に来る日を楽しみに待っています。
「時空庵」
鹿児島県大島郡瀬戸内町清水
TEL 0997-72-3468